祥泉院の本堂建築中の内部を見学しました。

早朝の太極拳が終わった後に、いつもどおり、近くのお寺の祥泉院に行くと、住職さんが出てきて、今建築中の立派な本堂の内部を見せてくれました。
そこには、様々な彫り物や、大きな柱、住職さんのお父さんが彫ったという、天井の彫り絵などを見せてくれました。
そこには、近くを流れる鶴見川の鳥や、水の中の生き物たちも描かれていました。
特に印象的だったのは、ウサギの彫り物が多かったことです。ここの住職さんがその彫り物のデザインを意匠したということです。
ところで住職さんは58才と言うことですから、うさぎ年かなと考えてみると、うさぎのお話について頭に浮かんできました。そこで以前に書いたワールドインポートサークルの会報誌の編集記事「日本のお月見の風習」をここにご紹介します。
●十五夜と十三夜●
十五夜は陰暦8月15日(毎年変わり ます)。この頃の月を賞<め>でる風 習はすでに中国・唐代の記録からあっ て、中国の「中秋節」の影響で奈良時 代に伝わり、始まったものとされます。 平安時代初期に、貴族達の間で、この 日の月を見ながら宴会をする風習がで き、この頃の平安貴族らのお月見は、 月を直接見ることをせず、杯や池に映 した月や、船に乗り水面に映った月を 眺めながら和歌や音楽を楽しむ「観月 宴」とか「月の宴」と呼ばれる宴が催さ れていました。 この月見は、本来豊作の象徴である 満月に秋の七草やだんご、季節の野 菜などを供えて、満月をまつる神祭り の日であったと考えらています。民間 に定着するにあたっては、やはりその 基礎となる習俗がありました。これが初 穂祭、つまり秋の収穫祭であるとされま す。春から手を掛けて育てた作物が秋 には実り、人々に大事な食料をもたらしてくれます。日本人は この自然の恵みに感謝して、この時期いろいろな祭を行いまし た。特にこのお月見の時期、里芋がおいしくなります。単に名 月を鑑賞するだけの行事ではなく里芋の初物を祝う収穫祭で もあり、畑作儀礼だったと考えられています。 里芋はインドを中心とする熱帯アジアが原産地で、日本へは すでに稲作以前に南方民族の北進と共に伝播されたらしい古 い作物で、奈良時代から栽培されてきました。 そしてもう一つ、旧暦9月13日の夜の満月は「十三夜」と呼ば れ、同じようにその美しさを愛でる習慣が日本にはあります。十 五夜が古代中国からの伝来なのに対して、「十三夜」に関して は日本独特の習慣だといわれており、十三夜の習慣もとても古 いようです。日本では、この両方を鑑賞するものがお月見なの であり、片方しか行わない「片月見」は良くないとう伝承が各地 に残っています。 伝統的なお月見(十三夜と十五夜)の飾りとしては、地域に よっても異なりますが、十五夜はすすきと秋の草花やお団子( 15個)、さつま芋や里芋などの農作物や柿やなしなど季節の果 物を供えます。十三夜には、ススキやお団子(13個)とともに栗 や豆などをお供えします。ですから、十五夜は「芋名月」、十三
夜は「豆名月」または「栗名月」といった別名もあります。鳥取 県のある地域では、十五夜を芋神様のお祭りとして、芋の掘り 始める日としているそうです。ススキを飾る由来は、ススキが稲 穂に似ているためで、稲穂そのものを飾る場合もあります。ま た、ススキの鋭い切り口が魔除けになるとされ、お月見のあと軒 先に吊るしておく風習もみられます。月見団子の由来は、古く からの日本の代表的食物で、丁度この頃出る里芋を炊いて供 えたのが原型とされているため、中国の月餅から団子に変わ ってお供えするようになったようです。ですから、関西の方では 里芋のような紡錘型のだんごであったり、それにあんが巻いて あったりする月見団子がポピュラー。私は月見団子と言ったら
白くてまん丸のものだと思っていたの で、地域によって違うのだなあと面白く 感じました。お供えする団子の数は、 一般的に十五夜は15個、十三夜は1 3個とされていますが、その年に出た 満月の数を供える(平年は12個、閏年 は13個)という説もあります。昔は月の 満ち欠けによって暦が作られ、農作業 も進められていましたから、満月の数 や、新月から何日目の月か(○○夜) ということは大きな意味があり、それが 団子の数になったのです。
●お月見泥棒!?●
面白いことに、昔は多くの地方で、こ のお月見の日だけは、子ども達は人 の畑に植わっている芋を勝手に取っ て食べても良かったり、縁側にお供え してあるお団子を黙って取って食べて もいいという「お月見泥棒」という風習 がありました。ただし幾らでも取ってい いという訳ではなく、畑の芋なら道から 片足踏み込んだ所まで、団子なら一
人一個といったようなルールもあったようです。子ども達は、箸 か長い棒一本を持って家人に気づかれないように庭先や玄関 先に置いてある団子をいただく、見つからないようにとスリルを 楽しむ日だったのです。また、盗まれた方の家では「お月様が 食べてくださった」と子供たちが今年も元気な印だと、喜んだよ うです。幼児の死亡率の高かった昔の時代には、子供たちは お月様の世界(向こうの世界)に半分暮らしているという考え方 もあったのだそうです。また、「団子は多く盗まれた方が縁起が よい」、「供物の団子を盗んで食べると健康でいられる」などとも 言われていました。しかし、教育上よくないという見解から、廃 止になったところがほとんどだそうです。この祭事の行為の基 になっている気持ちを教えようとせず、行為自体だけを問題視 して教育上良くないと廃止してしまう不安の教育こそ、問題の ような気がしますが。最近では、お月見泥棒が変化して、子ど もたちがお菓子をもらいに回るような、まるで和製ハロウィンと いった行事を行っている地域もあるようです。
月ウサギのルーツ
日本では古くから、「月にはうさぎがいて餅つきをし ている」といわれています。では、なぜ「月のうさぎの餅つき」の
お話ができたのでしょう? このお話の元祖は、中国の昔話にあると言われています。 中 国では、中秋に兎児爺(トルイエ)という昔の役人の格好をし た泥人形が飾られます。そして、うさぎが薬をつく絵を庭に飾 り、月餅を食べます。ではなぜ、こうした風習ができたのでしょ うか?その由来は、さらにインドの伝説に由来しているといわ れ、仏教の説話から生まれた見方のようです。諸説あります が、1番ポピュラーな話を要約してご紹介します。
『昔、うさぎと猿と狐が道心(信心する心)を起こしたのを、帝釈 天(タイシャクテン)という神様が試そうとし、老人に化けて供養 を請うと、猿は木の実を、狐は魚を捕ってきましたが、何も捕る ものがないうさぎは、自ら火の中に飛び込み、自分の身を 食 料として老人に捧げました。この事を哀れんで、帝釈は月にう さぎの形を移し、人々に知らせたのです。』というお話です。こ れが中国で薬草をつく月ウサギのルーツではないかと言われ ています。そして日本に渡って餅をつくようになったのは、「うさ ぎが老人のために餅つきをしている」とか「うさぎが食べ物に困 らないように」という説もありますが、日本における中秋の名月 が豊穣祝いであることを考えると、たくさんのお米がとれたこと に感謝する意が込められているように考えられます。

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